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「あなたは~だもんね」というフレーズを頻発してそれベースにいじりながら会話することが多い子ってたまにいるけど私はそういう人があまり得意ではないんだと最近になって気付いた。(なんか毎回気付いたって言っているけどここ思考のログなんだから当たり前か)

いるよねたまに。マウンティング教いじり派みたいな人。誰かがこういう人であるといじり続けることで自分を力技で無理くり肯定している人。彼氏がいない、化粧が濃い薄い、服がダサい、オタク、性格が暗い、空気が読めないなどなど。男女問わずそういったトークは無自覚なんだか自覚しているんだかが曖昧な分質が悪い。

「あなたは~だからさあ」

とか相手の性格とか環境をいじる言葉達ってある種の呪いだと思う。呪い。それを言われることによって自分が大切にしているものや気持ちが少しずつ麻痺してしまうような、じわりじわりと世間やその人の偏った価値観に染められていくような、毒みたいなもの。これは周りに対して感じることであり、また自戒でもある。私も嫌だと声を上げるくせに、無自覚にこうしていないかは自信を持って言いがたい。

 

でも、これは自分自身をしっかりと愛でて肯定する事が出来る人は全くダメージがないんだなと彼氏や周りの人を見ていて思った。そりゃそうだ。自分が1番自分のことをわかっているし、1番愛してあげられるのは自分なのだ。

 

私は誰かにいじられて断定されるのは嫌なくせに、じゃあ自分は何者かはしっかりと言えない。だからどんどん言葉たちに首を絞められていって苦しい。以前の私は彼氏が長年いないまま周りが幸せそうな姿を見たり「あなたは彼氏がいないもんね~」と言われて傷つき「私は誰かに愛されないから価値がない」と思っていた。

けれど昔の私よ、そうじゃないんじゃないのかな。そもそも"自分の価値は誰かに承認されてはじめてあるもの"だという前提が間違っているんだって今の私は思っているよ。自分の価値は自分で認めて大切にしてあげないと、ずっと自分は価値がなくて、寂しいままだよ。

そんな人が相手に求める承認や肯定ほど相手にとって呪いであることはないのかも。誰かをちゃんと好きでいて愛情をもつことは、相手に見返りを求めることじゃない。

 

誰かをいじるマウンティング教いじり派の人と同じぐらい、私も"自分が何者なのか"がわかっていないんだろうなあ、とひどく澄んでいる夜の空を見ながら思っていたら、少し悲しくなってしまった。この気持ちを忘れたくないので、ブログに書いておくことにします。

 

けれどそんな面倒さを愛してもいるのだ

くやしい、と胸の底でぐるぐるとぐろ巻くことがよく考えれば私は幼い時からよくあった。

記憶の中で最も古いのは5つ下の弟は甘やかされ私は「お姉ちゃんなんだから」と怒られることが多かったこと。おままごとやごっこ遊びで自分の希望の役になれなかったこと、コツがつかめずぐちゃぐちゃになった硬筆の書き初めで金賞もらってた子がお手本みたいに綺麗だったこと。

 

中学生までは絵も描くことが好きだったから親や周りの友達に馬鹿にされるのも嫌いだったし、高校生~去年ぐらいまでは特にひどかった。自分じゃ手に入らない物や環境に対する妬み嫉みで生きてきたと言っても過言ではないくらい。他の人より妬み嫉み悔しさを感じやすく、またそれをガソリンに生きてきたと思う。

嫉妬の過渡期(?)を過ぎて、自分より意識の高い人たちの中で揉まれて強くなりたいと思ってゼミに入った今でも、毎日のように周りの人と比べてできないことを見ては「あの人はできてるのに…!」と歯をギリギリして焦る。できる限り全速力でみんなという目の前の人参を追いかけて走る。

 


そんな感じで、私の性格はいいように言うと負けず嫌い。上を見てまだまだだと歯を食いしばって努力するほうが好き。はっきりと言えばあれもこれも欲張りでわがまま。悔しさをよく見てみれば自分の理不尽だったりわがままの集合体だったりすることが多いんじゃないかな。


表現することは私は好きだけどどれも下手なおかつ中途半端で褒められるものじゃないのでダメです。だけど苦手なところ・できないところに目を向けるともっと止まらない(前の記事でも話したけど)。話す能力が足りない、空気を読むのも下手くそ。探究心持って質問するのも苦手。論理的じゃない。流されまくるし即行動ができない。ぽんぽん”ほしい能力リスト”に突っ込んでいって、上を見れば見るほど上から降りかかってくるものばかりで息が苦しくなる。

 

 

あれ、私何者になりたいんだ?

 

電車の中で本当についさっきふと思ったので笑ってしまうけど、この課題を全部完璧にこなすことのできる欠点無しの完璧人間みたいに私はなれるのか?ていうか、なりたいかな?

自分はなれるなれない度外視してどうしたいかちょっと考えてみたけど、ほんとは、あんまりなりたくない、かも。自分の大切にしたいものが見つからないから、みんなのキラキラがよく見えちゃってたの、かもしれない。

そう思ってから思い出したのは、同じゼミで明るく素直でいい子で、ミスコンに出るくらい才色兼備の女の子が「周りのみんながすごくて不安で仕方がない」と帰り道泣いている姿だった。こんなに完璧の子でも悩むのか、と衝撃的だったのを覚えてる。みんながみんな、自分の持ち物に満足できていない人がほとんどなんだ。その現実を変えることが難しいのなら私は、自分の器の形のいびつさを変えようとしないでまるっとに大切にできるようになりたいんだ。

 


なんだ、いびつな人間はむりやり綺麗な五角形にになろうとしなくていいのか。

 

好きでいられる気がしたつもり

20年。

今までそれなりの期間をそれなりに生きてきて、もうすぐ私は21歳になる。思春期の青春を捧げた嵐は5×20になってるし、大学の駅のホームから降りると同級生であろう子達の服装はリクルートスーツがちらほらいて、就活がうっすら近づいている。

もうそんな歳になったんだからってここ数年間の私はある程度、自分のことを理解している”つもり”だったけど、最近自分の課題や本質的な部分を追及していったら見て見ぬ振りしてきためちゃくちゃ泥まみれの大きな根っこを引っ張り出してしまった。

 

というのも私は自信がない。

さらには割と自分のことが嫌いだといったところ。

 

結構ありきたりなことなんですけど、無自覚でかなり根深い根っこで。

面接などの場面で「長所は明るいところです!」という割に、実際私情は主観たっぷりで決めてしまうことを恐れて色んな人に意見を求めてしまうし、良くしてくれている友達のことは大好きでもその人達が私とずっとこのまま一緒にいてくれる(好いてくれる)気がしていない人間不信メンヘラ女、こと私。死ぬほどネガティブだし定期的に家に籠らないと精神死んでしまうし、暗い。泥沼のように暗い。自己分析できてなさすぎだなと自分でも笑ってしまう。短所をなんでかな~と突き詰めていった結果、どの問題もここにたどり着いてしまって「これはどうにかしなきゃいかんな…」と20歳になってやっと気が付いた。

 

そう、私には自信がない(大事な事なので2回言った)。

いいところは全く目につかないのに悪いところは数えられないほどあげられる。

バイト先の人みたいに効率的にとか考えてスピード感命で処理することができないので何してもいつも遅いし、周りの友達のように目標に対して周りの弊害もやらなきゃいけないことも休むことなく真摯に取り組むことも苦手で、しんどくなって勝手に優先順位を替えて立ち止まってしまう。

人類誰でも共通しているパワーバランスがあるとすれば綺麗な五角形の人間になりたかった。何しても大体75点みたいな人。私は好き嫌いが激しくて圧倒的に何かが尖っていて何かが反比例のように凹んでいる人間だと思う。75点もあれば30点もあるようなタイプ。でも何が不思議かって、私の尖っている項目名さえもわからないところなんだけど。

 そんな感じだからか今までずっと、私がなりたい大人はこうじゃない!と思って五角形になるように、苦手なものを我慢してやってみたりしてきたけどどこかでしんどくなってしまって、投げ出して、絶望してきた。

もしここにグラス(私の器)とワイン(能力経験アイデンティティとか)があったとするなら、もしかしたらこれまで頑張ってきたいくばくかは自分のグラスにワインとして注がれて量は増えたのかもしれないけど、私のグラスはどうやらとんでもなく大きくて、全然満足する量になりそうもない。(そもそもグラスいっぱいの量がどれくらいなのかもあんまりよくわかってない)

結果、グラスを見てこんなに何にもない私はだめだなあ、と打ちひしがれてしまう。

だけど、そもそも私は自分の器の大きさとか形とか全然わかってない。それだからなのか、時々自分にとって都合のいいように棚に上げて周りの人を下に見たり、自分を小さいと断定して周りを勝手に上に見上げたりして世間と自分の距離感をその都度図って勝手に生きづらくしているんじゃないのかなあといろんな人の話を聞いたり読んだりしてみて最近私がうっすら感じていること。

もしこのままの自分だったらいつまでも自信が出ないまま、生きづらい私のまま生きていくのかもしれないなあとも、同時に”このままじゃいやだ”ともぼんやり思う。

 

なのでこれから私は自分が何ができて何ができなくて、好きで嫌いでどんなことに喜びを感じるのか、自分のグラスの大きさをしっかり触って確認して、何色のワインをどれだけ注げばいいのかをこのブログに書き込みながら考えていきたいなあ。