だめかな

最近、自分が定義していたわがままこそ、人への信頼感を1番害してたんじゃないかなあって仮定を立てるようになった。

 


昔から、"自分"という存在や主語を人一倍気にしてきたと思う。物心がつくある程度の期間ひとりっ子でみんなから一心に愛情を注がれていたという自覚があるからか、自己肯定感が低いとはいえ心のどこかで「自分が大好きだし、私はかけがえのない人間」って意識が根幹にあった。この前も書いたけど、今思えば多分弟が生まれたところが色んなターニングポイントだったんだろう。比較的厳しかった親に「自分のことばかり」「お姉ちゃんなんだから」と言われ続けていたり顔色を伺いまくった友人関係によって、"自分の意思を発する=わがまま=悪"が成立していた。

 


つい先日アルバイト先の塾で高校生の女の子が友達間のもやもやを講師にぼやいていたその光景が、高校の時3年間友達だった子に心を閉ざした私とそっくりだったからひとりで笑ってしまった。

あの子と私は今思えば好きなものや趣味は一緒だったけれど根幹が全く違ってた気がする。特に人付き合いの面で、友人に対する考え方が相入れなかった。

自分がよければいいしある程度雑な扱いしてもこいつはわかってくれるだろう、受け入れてくれるはずだと思われているんだろうと感じてしまう向こうからの態度が苦手だった。友達なら喧嘩して当たり前とも私は思えず、静かにSOSを出し続けて気付けてもらえず、結局耐えきれなくて離れた。

 


単に雑さや衝突が信頼の証と感じるか、丁寧さや愛情を伝え続けることが信頼の証なのか。元友人は前者で私は後者、これは本当千差万別だと思うし同じ思考同士で付き合えばいいと思う。

 


ただあの子の私への振る舞いこそわがままだったんだな、と感じた。

 


私は自分の心の動きや色味をしっかり感じたい人間だが故に自分が主語になりがちだけど、(もうこのブログこそ権化)私と同じくらい他人のそれをも尊重したいしだからこそ、ふと自分のいいように振舞っていないか?相手に伝えてないか、常に自分の行動を省みて工夫することが大切だなと思う。

 


それを気にしすぎて身動きがとれなくなるのが今までの私だったんだな~なんだそうかあ~~って笑うことができて、その日はぐっすり眠れました。できるだけずっとそんな自分であり続けたい…。あなたはどうですか?

この気持ちのほんのいくばくかを

相も変わらず就活準備、自己分析という言葉が私の周りを巡り巡っていながらだらだらと大学生活の余生を過ごしております。そんな私でもこれはそろそろやらないと…と腹を括りぽつぽつと分析を始めました。その中で、私の興味や感情に通ずるいわゆる核みたいなものになんとなく気が付いたので、今日は書こうと思います。しょうもないかもしれないし、少し稚拙な考えかもしれないけれど、もしよければ私の独り言にちょっとだけ付き合ってください。

 

昔から私は「しょうがない」という単語が苦手です。

女性としてこの世に生まれると、納得できない不条理は歩いてたらそこら中に転がってる石ころくらい大きいのから小さいのまで様々存在していると思います。


何も知らない幼い頃の私のはじめてのお手伝いは、お箸を家族の人数分台所から取ってテーブルに綺麗に置くことでした。その時は早く大人になりたい時期だから、お母さんと同じように仕事を与えてもらえることが嬉しかった。しばらくの間手伝ってみて、純粋な私はなぜ父はずっと座って醤油さえも歩いて取りに行かないんだろう?と疑問に思いました。ずっと座って指示を出すだけだから、それならお父さんも手伝った方が早いのに。そう思った私は全く同じことを父に尋ねると「『男子厨房に入るべからず』という言葉があって、台所に立つ仕事は女の人の役割なんだよ。」と教えられました。
あの時から生まれた違和感を、不平等感を、いまだに私は拭えていません。

その時から、産まれながらにしてどうすることもできないような不平等が嫌いでたまりませんでした。稼いできている男が偉い、お父さんは疲れているから手伝わなくても、しょうがないのだ。だから女である私とお母さんが動かなければいけない。それが家であると。

それからしばらくして、5つ離れた弟が生まれました。弟が生まれて手伝いできることが増えて嬉しいこともあったけど、ある程度物心がついた後に自分より愛情が注がれる対象が目の前にできるのを目の当たりにする経験・下の子が善意でした失敗も、甘んじて受け入れないと両親から諭されます。「あなたはお姉ちゃんなんだから、しょうがないでしょう」「年上なんだから、大人げない」失敗をとがめるのは悪であり、我慢することが良いとされるように。

長子である方、下の子がいる方ならなんとなく経験したことあるかもしれません。普通であればそれを受け入れ上手く受け流して成長していくのだろうけど、私は不器用なのかそういうところが意地っ張りなのか、「~だからしょうがない」に真っ向から戦っていました。それで中学生の時父親や母親と言い合いになることもしばしば。

私のそんな姿を見て、しょうがないを受け入れそつなくこなす弟に両親はやさしくて、それも輪をかけて苛立ちになっていました。男の子だから、部活頑張っているから。私と違って容量がいいから。私のすることにはあまり口を出してこない両親が、弟のことになるとべらぼうに優しくて居場所が見つけられない時期もありました。

女として長女として生まれたことはそんなにも我慢しなければいけないことが多いのか?子供みたいだなと少し恥ずかしくなりますが、今でも少し、そう思います。

 

ここで言っておきたいのは別にこの時から今でも、両親のことを毒親だと思ったことは一切ないという点。父親の親類が厳しい家系ということもあり比較的厳しい家かもしれませんが、私のやりたいことを第一に尊重してサポートしてくれますし、真面目で誠実である父親といつも明るくいてくれる母親には感謝と尊敬の念しかありません。

 こんなに家庭環境に恵まれているのに、そこまで求めることはわがままであると言われるかもしれない。確かに今では私に対する両親の接し方は私のためを思ってだったのだろうなとも、今では少しだけわかります。でも、私の中にはちっちゃいわだかまりがいっぱい溜まっていました。大人になってやっとわかるようになったこの気持ちを、大切にしたい。あの時も、この時も、ずっとどうしても虚しく、悔しかったんです。

 

 

不平等だと、思っていました。何事も。

女性だから家事を文句ひとつ言わずやらなきゃいけないことも、女性は男の人に愛されるような服装や愛嬌をふりまかなきゃいけないみたいな風潮も、先に生まれたら自分の気持ちを我慢しなきゃいけないことも、我慢しないことは悪だとされることも。

だから私は、平等に扱って欲しかったし、両親に認めてほしかった。

大好きだった絵も、きれいに書けるように練習した字も、そこそこ平凡な勉強も、区で入賞した部活動も。

 

 

じゃあこれからどうしようと思った時に、周りの人や同じような状況の人に同じような経験をしてほしくないし、同じような感情に陥る人がいるなら救いたい。少しでも前を向けるように支えたい。私は「しょうがない」で片付ける大人には、なりたくない。

いつまでも不平等に戦い続ける大人でありたいし、どんな人にも思いやりを持って常識や"べき"論を疑い続け、フラットに、軽やかで健やかな大人でありたいなあ、と思います。

そんな仕事あるのかなあと思いながら、就職サイトをスクロールする日々です。まあ、行動するのみですね。頑張ります。お付き合いいただきありがとうございました。

 

民主主義交際

この年になってから、長く続いているカップルが周りに多い中これからのことや今の悩みを相談されたりとか、つい最近中学の時の仲よかった子から婚約したことを報告されたりとか、楽しいだけの恋愛的関係より"パートナーとして""人と人として"考えることが個人的に多いなあと感じるようになりました。そこで忘れないうちに、ちょっと恥ずかしいかもしれないけど今思っていることをここにつらつら~と書こうと思う。

 

私には付き合って1年ちょっとの交際者(同い年/男性)がいます。大学のゼミの同期として知り合い、仲のいいグループでつるんで半年ぐらい友人関係で今も友人として遊んだりしているので比較的ラブラブ!いちゃいちゃ!よりかはフラットな関係で今も付き合えているかなあと思っている。(このブログ彼にバレているので解釈違いがあったらこわい)いや自分で何言ってるんだ恥ずかしい。

いかんせん人に頼るの苦手で圧倒的長女気質の私にとっては人生初めての彼氏で、最初の方は距離感とか全く掴めず不安定になったりすることもあり、正直「みんなこれ経験してきてるのか…?中高生で…?人生経験知高すぎるやろ……」と思いながらやさしい親友達に相談しながらおかげさまでどうにかこうにか楽しく過ごせています。ありがとう親友たち…

 

彼ら彼女らの話を聞いて自分を鑑みても確かにどちらかというと後者のような付き合い方だなあと思ったり。とはいえ長続きする事って難しいですよね。友人関係はまだ大丈夫かもしれないけど、お互いのいいところ悪いところを全てさらけ出したうえで恋愛関係を続けるってなるとどうしてもエゴとか歪みが出てしまうんだろうなあと交際者がいる今、身に染みてわかるようになりました。フラットな関係だし喧嘩もない方だけど、価値観の違いで余裕がない時とかは険悪な雰囲気になったりするので…。

 

今まで人と関係を長期的に仲良くなることが得意な自分でも今になってやっと思うことが、"好きでい続ける努力"が必要だということ。

相手を自分と同じ型にしようとするのではなく、あくまでも他人として尊重すること。それでも価値観が違いすぎて自分の中の倫理に反したり違和感があったのならできる限り言葉にして伝える努力を怠らない。伝えてくれたことへの感謝を忘れずに、お互い感情的になることなく納得する着地点を探し続けること。

これを避けられるなら楽かもしれないけど、お互い我慢して壁ができてずれが出来てしまうと元に戻るのは大変だし、それで別れてしまうのはなによりもかなしくむなしいと私は思う。男性女性でくくったりしてしまうのはとてもナンセンスですが、人によってライフスタイル・価値観はまるっきり違いますし、自分がしてほしいことが相手にとってはしてほしくないことかもしれない。良かれと思ってやってくれることほど相手がわかってくれなくて「こんなにしてあげているのに!」ってやきもきしちゃうものじゃないですか人って。

 

先日休止宣言をした嵐の記者会見でもありましたが、「ひとりでもやりたくないと言えばそれが何故なのかを徹底的に話し合い、みんなが納得する結論を探し続ける」と二宮くんが言っていたのを聞いて本当にその通りだなと思ったし(小学生の時から青春のすべてだった嵐及び二宮くんは私の人生の教祖)、嵐というあの5人ほど民主主義の国家みたいなお手本はない。嵐がそうだったから私もそうしているとかでは全くもってないけれど、私もすべての対人関係はああでありたい。

こういうことを友人に言ったりすると「お前めんどくさいな」って一言で一蹴されるし私もそう思うのですが、ありがたいことに交際者は結構寛大なヤツなのでどんな時も、私のわがままに付き合ってくれて、良くも悪くも冷静に建設的に話し合いをしてくれるので、この人でよかったなと思います。こういう民主主義的な関係がちょうど合っているのかもしれません。

 

私は私、彼は彼として1人でも生きていけるけど一緒にいる方が楽しいし最強だよね~っていうプリキュア状態(?)を目指して、これからも"好きでいる努力"を楽しみながら、民主主義交際を続けることをここに誓います。

 

 

 

お題「これって私だけ?」

なまぬるい夜更け

私事で大変恐縮なのですが、今日、またひとつ年を重ねました。センター試験を緊張で手汗がすごくてシャーペンを何度も握り直しながら受験してから3年、成人式で振袖を着てみんなで笑い合ってから1年経った。

なんだかあっという間だった。

去年は、特にブログを始めてからは生活的にも精神的にもだいぶ変化があったかもしれないなあ。まだまだ自信がなかったり不安定になることもたくさんあるけれど、色んな気になるジャンルも出てきたし、好きなことも少しずつだけどわかってきて、自分の中のテーマがはっきりしてきた感覚があります。「他人に合わせず自分のペースで生きることが幸せである」こと「居心地のいい場所を取捨選択することは、甘えかもしれなくてもした方がよい」ことは大事にした方がいいと学べたのは自分のなかでとてつもなく大きいかもしれないです。自分の価値を社会というフィルターを通して考えるのではなく、切り離して大事にしていこうという意識が芽生えた。今年は引き続きそのあたりを探求しつつ、就活も卒論もあるけど成長のための一環として頑張ります。

私はきっと企業のブランドとか諸々が安定しているところには行く予感が今はしていないので、路頭に迷わずにとりあえず社会に出られるような権利を手に入れることが上半期の私の目標…(震え声)

 

とはいえ、なんだかあっという間だったなと思う。本当に。だから普段は全く大人になった実感がないまま過ごしているけど、朝起きて、ふとしたところで何となく感じてしまった。

12時ぴったりに祝ってくれるLINEがたくさん来なくったって、学校に行ったらサプライズがなくたって寂しく感じることなんて全くない(クラスの中心人物じゃなかったけどそういえばそれなりに祝ってもらっていた…ありがたい)し、誕生日だからって特にはしゃぐこともなくて、あ~大人になれば結局ただの365日分の1日にすぎないのかもと思った時に、どこか少し寂しいような、ぼんやり淡い気持ちになった。

だけどその代わりに、大事な人から想いの籠った一言だったり、しょうもない話をしながら電話できること、無印のディフューザーでアロマオイルを使えばいい匂いで落ち着いてぐっすり眠れて、最近買ったブラシで髪を梳かせば何もしないより格段にさらさらにまとまるし、今日も大好きなマグカップでコーヒーを飲んでほっと一息のんびり過ごせる。その何にもないような些細なことがよろこびだなと感じられた。悲しいかと言われたら、全くそうではない。

 

子供の頃、ケーキを買ってきてもらって親や友達から盛大に祝わえてもらえる誕生日はなんて特別なんだろうと思っていた私と、周りに感謝しながらこうしていつも通り1日を過ごしている私。大人になるって、根幹は変わってないのかもしれないけど、こうやってだんだんとグラデーションみたいに、特別だったり幸せなものが日常の些細なものに変化していくことなのかも。

"大人"というフレーズがなんだか苦手でしょうがなかったけど、案外悪くないんだな。

 

とはいえ私も成人歴2年目。まだまだ成長の伸びしろはある(と自分で信じておきたい)。こういったグラデーションを楽しみながら、魅力ある大人になれるように、今年も1年精進していこうと思います。

 

 

おろかしい美学

今年に入ってから、#Metoo や医学部入試問題で女性に対しての待遇のひどさや差別が問題になっていて、私も大学に入ってから"若い女の子"として大人に烙印を押されることも少しだけあったためフェミニズムLGBTに少し興味があった。明らかに問題としては存在はしているし私も女性である分当事者なんだけれども、なんとなく遠いものに感じているところがあったと思う。だけど、まさか、自分がこんなに違和感を感じる出来事が平成最後の冬に起きるなんて思ってなかった。

授業で、教授に言われた言葉が未だにチクチク刺さっている。

 

「まあ、あなたは僕の好みだけどかわいいし、やっていけるんじゃないかな」

 

確かに前々からそういうことを少し言っているところがある先生だったから、その度違和感を感じていた。若い先生だし大学を何の気なしに通っていたら出会えていなかった刺激される経験ばかりになったことは感謝しているしそれなりに尊敬もしている。だからこそそういった新しい感性を持っていることを期待して1年生の時から授業を受けていたはずだった。

なんとなく一緒にいてみて、先生は私たちに対して「社会に出てたくさん稼ぐ新しいトップランナー」的な存在になってほしかったんだな~と思うし、そのためには今までの古い企業や社会の慣習に何となく従うべきだっていうこれまでとあまり変わらない価値観だったことがとても失礼な言い方になってしまうけれど少し悲しかったというか、がっかりした。

 

かわいいと言われたんだからいいじゃないかとか、そういう問題じゃない。私は将来の進路や私自身の今後の課題について聞きたかったのに、なんでそこに自分の好みで容姿について話す必要があるの?仕事に関係してるの?私別に芸能人じゃないし…。

やっぱり女の子は容姿で仕事の実績も何もかも評価されてしまうんだろうか?

そもそもたくさん稼ぐことが全てなんだろうか?

今現状は実績だけで評価されることも容姿だけで扱われることも女性に風当たりが強い社会であることもすべて本当なのかもしれないけれど、それに黙って従うことがいいことなのかな?

 

明らかに"かわいいから大丈夫"という言葉は"男性や目上の人がそこで評価してくれるから大丈夫"ということなんだろう。私の性格や能力は見てもらえないの…?

 

こういう時にいつも大好きなドラマの「問題のあるレストラン」に出てくる高畑充希さん演じる川奈さんのセリフを思い出す。

 

誰だって線引いてるんです。そんなことでいちいち傷ついてたら、会社勤めできません。日本中の女子社員みんな、ま、こんなものかって我慢しながら働いてるんです。そこの線引きできない人は、負けなんです。

 

「その服男受け悪いよ」とか言われても、「ああ、すいません気をつけまーす」って返せる教習所も卒業したんで。「痩せろ」とか「ヤらせろ」とか言われても、笑ってごまかせる教習所も出ました。免許証、お財布にパンッパン入ってます。痴漢されたら、スカートはいてる方が悪いんです。好きじゃない男の人に食事に誘われて断るのは、偉そうな勘違い女なので駄目です。セクハラされたら先方は温もりがほしかっただけなので許しましょう。悪気はないので、こっちはスルーして受け入れるのが正解です。

どうしてしずかちゃんはいつも駄目な男と偉そうな金持ちの男と暴力ふるう男とばかり仲良くしてるか分りますか?どうしていつもお風呂場覗かれてもすぐに機嫌直すか分りますか?どうして女友達がいないか分りますか?彼女も免許証いっぱい持ってるんだと思います。

いつだって女性は世の中の男性有利で作られた不条理を「まあしょうがないか」で見て見ぬ振りをすることが得策なのだというような考え方が、どうしても今の社会の真実であることが当時から悔しくて寂しくてしょうがなかった。最近は少しずつ変わってきてはいるけれど、年を重ねるごとにより実感して、悲しくなる。

 

もし女性として社会に出ることに関して「大企業に就職して、そこで容姿やセクハラパワハラをうまいことかわしつつ成績バリバリ残していいパートナー捕まえて、年収何千万ぐらい稼いでいい家に住む」ことが賢いのだ、価値があるのだと仮定されているのなら、私はその構造に抗って新しい流れを作ることに価値を置きたいしそこで年収数千万とか稼げなくとものびのび困らないぐらいの収入で賃貸のワンルーム暮らしの方がよっぽど幸せだなと思う。

  

上に書いたような価値観や、「女性は男性に評価され選ばれる立場である」みたいな偏ってるのに無意識的に刷り込まれている呪いのような固定概念を、私は疑って少しずつ自分の中の呪いを解いていきたいです。そしたらもっと楽しいしサイコーにイケイケでハッピーな女の子があふれると思うんですよね…(語彙力の急激な欠落)

 

自分の中である程度落ち着いたら削除しようと思っていますが、あまりに自分の中で消化不良だったので思うままに書きなぐってしまった…読んで下さってありがとうございました…!

 

 

 

 

 

ライフイズグッド

ここ最近、このツイートを見てから、自分はHSPであるということがわかりました。

 

 

学校の課題提出、就活、バイト…様々なことが重なり寒くなったからか気分も落ち込みどんよりしていた時にこれを見つけて、心が軽くなりました。助かった…

確かに、生きるのしんどい(言い方が悪い)とはうっすら思ってて。 

初めて自分の生き方のしんどさに気付いたのは、中学生の時でした。思春期ならではというか中学生ならではのあの友達と喧嘩してあの子の元彼が誰と付き合って…というこじれまくる人間関係のぴりつきが始まったあの時、自分はそういうトラブルにはほぼ無関係だったけど誰かの顔色や人間関係を気にして、とてつもなくストレスがたまるという日々があったあの時からずっと良くも悪くも"考えすぎる"人間でした。

ここ1,2年は特に、ゼミに入ったことや色々活動的になった中で周りの人と比べて同じことを同時にこなすことが苦手だったりで特に自分の内面や能力面で悩むことが多くあったし、今年はそれで夜な夜な泣く日々が続きました。その度彼氏や友人に励ましてもらい、「何でこんなに自分の機嫌も取れないんだろう…」とまた落ち込むの繰り返し。

実はかつてこのツイートを見かけた時「私っぽいけどこれはただの思い込みだな~」と思って見過ごしてしまったことがあったのですが、今回に限っては本当に悩んでいることが漫画と同じだったのでこれは言い逃れできないなと思い試しにサイトで自己診断をしてみたところ、スコア?が108で強度と出たのでつい笑ってしまいました。めっちゃ出てるやないかい。でもなにより、自分自身の悩みがこうやって事象として存在していて、1人ではないということに安心しました。

 

これからライフステージが変わってくこのタイミングで勉強しておこうと思って試しに本を買ってみて読んでみたのだけど(これはちゃんとブログにしたいので細かには書かない)、病気ではなく気質なので受け入れやすかったし、自分は欠点だらけだと思っていたけどそれは短所にしか焦点が当たってなかったからだなと認知できたのは良い収穫だったかなあと思います。HSPは音や光、においに敏感らしく、私も外出するとたまに頭痛がするので試しにイヤホンや視界を区切るという意味で眼鏡を多く使ってみて生活しているのですが気持ち的にやっぱり少し楽なので、上手な付き合い方って必要だな~と感じています。

 

何より親友にこの話をしたところ「これは短所じゃなくてあなたの特徴」と言ってくれたことが何より嬉しかったしもう親友大好きだし(?)、あとちょっとだけ今思ったのはこういう嬉しい出来事を嬉しいと深く思える自分でよかったです。

 

今回ブログを書こうと思ったのは、こういう気持ちをガン無視して突っ走ってしまう自分に向けて「自分の気質と向き合いましょうね。ゆっくりね。」と宣言するためです。私は自分の「~べき」の考えに押しつぶされてしまうのでこう書いておかないと忘れそうだからっていうのもあります。5人に1人の割合でいるみたいですが、別にそうじゃない4人が正しいわけでも私みたいな1人が正しいわけでもない。ちょっとずつ自分で上手く折り合いをつけられてあわよくば自分のいいところを伸ばせる人間になりたいなと思っています。

1からはじめる

松浦弥太郎さんの「1からはじめる」読了しましたので、忘れないようにという備忘録的感想です。今本当はぽちぽちとブログを書いている場合じゃないんですけどね。

 

松浦弥太郎さんはもともと書店で手に取っていたりして興味があったのですが、ちょうど友人と「自分を好きになったり内面を考えるなら赤ちゃんと見なしてやらないとね~(超概要)」的な話をした翌日にこれを見かけたので読まなきゃ…!と思い即購入。あと表紙がシンプルかつ可愛いので好きです。

 

パソコンが広まり効率化やスピード感が求められる昨今で何事もコピペしてしまうとどんどんと何が自分にとって大切なのか考えなくなってしまう。そのためには常に自分で1から考え、疑問を持ち、ビジョンを作る。割とお仕事のことが重点的に書かれた部分も多くあったけれどどれも松浦さんが生活の一部のようにお仕事をしている感じがしたので文字をなぞってもとても身近に感じられる本でした。

 

その中で読んでて印象的だったのは2章の「観察」でした。というのも前半部分で中心的に述べられていたのが自信についてだったからなんですけど、「自分の中に生きること、働くこと、暮らしなど何事にも答えを持つことで自信は生まれる。その為には自分と深く対話する。そうすることで自分に自信が出てくる。自身は自分で持つもの」とかかれているのを読んで、きっと私の今やっていることはあまり間違いではないのかもしれないなあ、となんとなく最近の自分の答え合わせができたのでちょっと安心しました。自信は自分で持つもの、まったくもってその通り…。

同時に自分に対してとても小さく見る癖があるので、等身大で、小さすぎず大きすぎないように自分を観察することはめちゃくちゃ難しいとも思っていますが、そこは時間をかけて頑張っていきたいなあ。

 

最近、気になっていた企業の経営責任者の方も松浦さんのように自分なりの答えを持って働いているお話を聞けたり、フリーランスの方にお話を伺えたりしてやっぱり自分もこうありたいなと思うことができるようなありがたい機会が多くて嬉しいです。私はビビりなので、あれこれ考えてしまって一歩踏み出すのも精一杯なのですがこういうことが多いとやってみてよかったなと感じます。

 

今1からはじめたばかりの私は、こうやってちょっとずつ前に進んでいくことを、丁寧にやっていこう。

 

1からはじめる

1からはじめる