好きでいられる気がしたつもり

20年。

今までそれなりの期間をそれなりに生きてきて、もうすぐ私は21歳になる。思春期の青春を捧げた嵐は5×20になってるし、大学の駅のホームから降りると同級生であろう子達の服装はリクルートスーツがちらほらいて、就活がうっすら近づいている。

もうそんな歳になったんだからってここ数年間の私はある程度、自分のことを理解している”つもり”だったけど、最近自分の課題や本質的な部分を追及していったら見て見ぬ振りしてきためちゃくちゃ泥まみれの大きな根っこを引っ張り出してしまった。

 

というのも私は自信がない。

さらには割と自分のことが嫌いだといったところ。

 

結構ありきたりなことなんですけど、無自覚でかなり根深い根っこで。

面接などの場面で「長所は明るいところです!」という割に、実際私情は主観たっぷりで決めてしまうことを恐れて色んな人に意見を求めてしまうし、良くしてくれている友達のことは大好きでもその人達が私とずっとこのまま一緒にいてくれる(好いてくれる)気がしていない人間不信メンヘラ女、こと私。死ぬほどネガティブだし定期的に家に籠らないと精神死んでしまうし、暗い。泥沼のように暗い。自己分析できてなさすぎだなと自分でも笑ってしまう。短所をなんでかな~と突き詰めていった結果、どの問題もここにたどり着いてしまって「これはどうにかしなきゃいかんな…」と20歳になってやっと気が付いた。

 

そう、私には自信がない(大事な事なので2回言った)。

いいところは全く目につかないのに悪いところは数えられないほどあげられる。

バイト先の人みたいに効率的にとか考えてスピード感命で処理することができないので何してもいつも遅いし、周りの友達のように目標に対して周りの弊害もやらなきゃいけないことも休むことなく真摯に取り組むことも苦手で、しんどくなって勝手に優先順位を替えて立ち止まってしまう。

人類誰でも共通しているパワーバランスがあるとすれば綺麗な五角形の人間になりたかった。何しても大体75点みたいな人。私は好き嫌いが激しくて圧倒的に何かが尖っていて何かが反比例のように凹んでいる人間だと思う。75点もあれば30点もあるようなタイプ。でも何が不思議かって、私の尖っている項目名さえもわからないところなんだけど。

 そんな感じだからか今までずっと、私がなりたい大人はこうじゃない!と思って五角形になるように、苦手なものを我慢してやってみたりしてきたけどどこかでしんどくなってしまって、投げ出して、絶望してきた。

もしここにグラス(私の器)とワイン(能力経験アイデンティティとか)があったとするなら、もしかしたらこれまで頑張ってきたいくばくかは自分のグラスにワインとして注がれて量は増えたのかもしれないけど、私のグラスはどうやらとんでもなく大きくて、全然満足する量になりそうもない。(そもそもグラスいっぱいの量がどれくらいなのかもあんまりよくわかってない)

結果、グラスを見てこんなに何にもない私はだめだなあ、と打ちひしがれてしまう。

だけど、そもそも私は自分の器の大きさとか形とか全然わかってない。それだからなのか、時々自分にとって都合のいいように棚に上げて周りの人を下に見たり、自分を小さいと断定して周りを勝手に上に見上げたりして世間と自分の距離感をその都度図って勝手に生きづらくしているんじゃないのかなあといろんな人の話を聞いたり読んだりしてみて最近私がうっすら感じていること。

もしこのままの自分だったらいつまでも自信が出ないまま、生きづらい私のまま生きていくのかもしれないなあとも、同時に”このままじゃいやだ”ともぼんやり思う。

 

なのでこれから私は自分が何ができて何ができなくて、好きで嫌いでどんなことに喜びを感じるのか、自分のグラスの大きさをしっかり触って確認して、何色のワインをどれだけ注げばいいのかをこのブログに書き込みながら考えていきたいなあ。